社会の一部になるということ

人は他者と関わりながら、自分を形作っていく。しかし、その過程で多くの人は自分の本質を見失い、社会に合わせることを強いられる。これは社会が正常であることを維持するために、異質な存在を排除しようとする力が働いているからだ。

自分を取り巻く人々の影響で、自分自身が形成されていることは確かだ。周囲の人々の言動や行動が自分に伝染し、知らず知らずのうちに自分の一部となっている。例えば、喋り方や服装が周りの人に似てくることがある。これにより、社会の一員としての自分が成立し、同時に他者との関係性も保たれているのだ。しかし、この過程は一方で個々の独自性を奪い、個性を埋没させていくことでもある。

社会は異質なものを理解しようとすることなく、無遠慮に踏み込んでくることがある。特に個人の性や生き方に対する干渉は、その典型例だ。人は他者の異質さを理解しようとせず、自分たちの理解しやすい形に押し込めようとする。この無理解と干渉は傲慢であり、時に暴力的ですらある。

また、差別や偏見は深刻な問題だ。差別する人たちには、差別を内面化している者と、ただ聞きかじったことを繰り返している者がいる。いずれにしても、社会の「正常」から外れる者は排除される運命にある。正常な世界が異質なものを静かに削除することは、社会の冷酷さを如実に示している。

このようにして、個人は社会に適応しようとするが、それはしばしば自分の本質を捨てることを意味する。自分を形成している周囲の影響に抗うことなく、社会に順応することは、結局、自分自身を失うことだ。人は他者を裁くことで自分の優越感を満たし、正常であることを保つ。しかし、それは本当の意味での人間らしさを失っている証拠でもある。

結局、社会の一部として生きることは、異質なものを排除し、同化する過程である。その中で自分を見失わないようにすることは難しいが、必要だ。社会が強引で冷酷であるほど、個人の価値と独自性を守ることの重要性が増してくる。