生贄を選ぶ理不尽さ

人は時に、最も効率的と思える選択をしようとする。その結果、犠牲者を選ばなければならない状況に陥ることがある。しかし、この行為は正義に見せかけた残酷さを孕んでいる。誰かを切り捨てることで他を救おうとする姿勢は、結局のところ、弱者や愛されない者にさらに重い負担を押し付けているのだ。

なぜこうした状況が生まれるのか。それは「大多数を守る」という論理が美しい言葉で装飾され、人間の感情や関係性が軽視されるからだ。たとえば、愛されていない人が犠牲になるのは当然だ、という価値観はその典型だ。しかし、それは本当に正しいのか?人の価値を他者の愛情の有無で決めることが許されるのか?

こうした状況を例えるなら、船が沈む際に重い荷物を海に投げ捨てるようなものだ。荷物に命はないが、それを人間に置き換えればどうだろうか。誰が「捨てられるべき人間」なのかを判断する権利など、本来誰にもない。にもかかわらず、人は不安や恐怖に駆られ、そうした選択を合理的だと信じてしまう。

結局のところ、こうした状況が教えてくれるのは、効率や多数の利益のために誰かを切り捨てる論理は、極めて危ういということだ。人間の価値は、他者の評価や状況で揺るがされるべきではない。犠牲を合理化する行為の中にこそ、人間の真の残酷さが潜んでいる。そしてその事実に目を向けない限り、社会の歪みは繰り返され続けるだろう。