ゲミュートローゼ-ネーガイ

「ふん~」
ネーガイは下手くそな鼻歌を囀りながら料理を作っていた。

ネーガイは暇つぶしにぬとらじを開始する。

「地獄に禁止事項は無い。最高じゃないか!修羅こそ至高。天国などを目指すのはもはや愚の歩みである!」
ぬとらじでネーガイは持論を展開する。

 

「行動を制限する秩序など、ない方がいいに決まっている。例えば家に虫が出た時に気持ち悪いからと言って家を燃やすか?確かに虫は出ないかもしれないが損害がでかい。世の中に現れる1部の害虫のために、善良なものの行動まで制限してしまえば、結局は腐敗の未来しかない。」

 

ぬとらじ配信でのスタイルはニーチェなどの哲学者の名前を出し、それに同意することで自らがニーチェほど崇高だと思うことが出来るという気持ちいいものだった。

(お、レスが来た!)

『お前クソつまんねぇよ』

「はい、誹謗中傷はアク禁ね。言っておくけど、ここでは僕が王だから、あとさぁ。その程度の煽りで僕が効くと思う?もう少し練ったこと言ってくれないとさぁ、面白みがないんだよね」

独裁者になりアリのように他人を潰すことの出来る自分に酔うこととなる。
さらにアク禁した上で相手を煽ることで死体蹴りができるのだ。悪口はむしろ一言にストレートであればあるほど相手にダメージを与えられることは知っているが、やはり悪口は言えば言うほど自分はスッキリする。

人間には自己正当化が必要なのだ。 自分は正しく、強く、価値のある人間だ、と思わずには生きていられない。だから、自分の言動が、その自己認識とかけ離れた時、その矛盾を解消するために言い訳を探し出す。子供を虐待する親、浮気をする聖職者、失墜した政治家、誰もが言い訳を構築する。

(僕の優れた思想をレスの連中に伝えなければいけない。)

誰からも注文されてないことですら使命感として啓蒙していく姿は他社から見たら滑稽、しかし彼からしたらそれは覇道であった。

レス「どうして人を殺してはいけないの?」

(お、こういう深いテーマを語るのが楽しいんだよ!)

「人を殺してはいけないって言うことの意味を論理構造的に分析したらいいよ。まず、人を殺すことはなぜ行けないのか」

本当は考えがまとまってなどいないが、かっこいいという理由だけで論理構造などという言葉を使い、喋りながら思考を紡ぐ。

でもそもそも『人を殺してはいけない理由』などという過激なテーマを持ち出す人間から取って欲しいのは、そのテーマの答えではなくそのテーマを考えようとしてる自分という存在の賛歌である。

つまりネーガイのぬとらじ配信などを聞いている存在は、ネーガイと同じく哲学的なのだ。

「たとえば、自分は明日、誰かに殺されるかもしれない、となったら、人間は経済活動に従事できない。そもそも、所有権を保護しなくては経済は成り立たないんだ。そうだろう? 自分で買ったものが自分の物と保証されないんだったら、誰もお金を使わない。そもそも、お金だって、自分の物とは言えなくなってしまう。そして、『命』は自分の所有しているもっとも重要な物だ。そう考えれば、まずは、命を保護しなくては、少なくとも命を保護するふりをしなくては、経済活動が止まってしまうんだ。だからね、国家が禁止事項を作ったんだよ。殺人禁止のルールは、その一つだ。重要なものの一つ。そう考えれば、戦争と死刑が許される理由も簡単だ。それは国家の都合で、行われるものだからだよ。国家が、問題なし、と認めたものだけが許される。そこに倫理は関係ない」

ネーガイは気分よく持論と答えを導き出す。

すると刺客が現れる。

こいつはシマちゃんである。

シマちゃんは語る。

『ホタテがさぁ、あのさぁ!』

(イライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライラ)

ネーガイの心は憎悪しか無かった。ホタテなど心底興味が無い。いいや、嫌いなどではなく興味が無い。それをなぜこんなまんこの口から聞かなければならないのか。

ネーガイは怒りに身を任せ、シマちゃんが去った後にアク禁をし、シマちゃんを消す。

(ふはは、サイレント法典の裁きを受けよ!)

(悪口を言われているのは慣れているはずなのに、何だこの恐怖感は…。なんだこれ…)

ネーガイはシマちゃんを消したことで開放されたつもりが、むしろあいつの幻影は自分を蝕んでいることに気づく。鬼胎により、ネーガイは放心する。

『どうしたんだ』『おいネーガイ!』

レスのヤツらにけしかけられ、仕方がないからノリでシマちゃんを煽ることになる。

「やーい!受験落ちー!」

悪口さえ言えば優位に立てるのだ。そう信じてネーガイは雑殴りのような暴言を吐く。
そもそも、自分の価値観にしっかりとした基準や自信を持っている者は多くない。特に年齢が若ければ、その価値の基準は常に揺れ動いている。周囲に影響を受けずにはいられないのだ。だからネーガイはことあるたびに、確信を匂わせ、侮蔑や嘲笑を口にした。すると、それが主観を超えた客観的な物差しとなり、相手との立場の違いを明確にすることがよくある。「あの男は、何らかの基準を持ち、判定ができる人間なのだ」と他の人間たちが認めてくる。頼んだわけでもないのに、そのような扱いを受ける。ある集団の中で、「価値を決める者」というポジションに立てば、あとは楽だ。野球やサッカーのような明確なルールなどないというのに、友人たちは、ネーガイの判定を、審判のそれのように気にかけてくる。

ネーガイほどのなまじ賢い人間はこのことをよく知っていた。

 

ネーガイが特に腹が立っているのは、当事者でもないのに割って入ってネーガイのような嫌われ者に対し、上辺の正義を翳してそれを後ろ盾に排他して正義ぶる連中だ。ネーガイに攻撃するような奴らはさぞ気持ちよく寝ることができるのだろう。

 

しかし、相手は強大で、もはや勝てないのだ。

ネーガイは絶望に押しつぶされながら、明日のバイトを言い訳に寝る。これを敗走などをバカにされることもあるが、悪意のある勝利より、気持ちのこもった敗北の方がいいに決まっている。

 

そう自分を正当化し、泣き寝入りをする。

 

追伸

僕の名前はネーガイ、今日も今日とておんJを開く。

楽しそうに語っている彼らを見ると異分子としてハブられている自分が惨めになる。

僕を排除して、僕の言葉の毒には過剰に反応して徒党を組んで僕を倒そうとするのに、なぜ彼や彼女の僕への暴言はそんなに笑っているんだ。

さっきまで文句をつけられて腹をたてていた人達も、自分を苦しめているのと同じ価値観の理屈でネーガイに文句を垂れ流すことで、自覚もなくネーガイを苦しめる。自分の人生を強姦されていると思っている人は、他人の人生を同じように攻撃すると、少し気が晴れるのかもしれなかった。

もちろんそれはネーガイも同様であった。

クソ、クソ、クソ!JC相手に講釈を垂れて気持ちよくなってる人はいいのか!?キチガイのような奇声を発して他人を不快にさせてる人はいいのか?!

ネーガイは自分の傷にとらわれすぎていて、ほかのみんなの傷に無頓着すぎた。 ネーガイだけじゃない。 ぬとらじに上がっているみんな、ぬとらじだけでもない。 この大変な世界では、きっとだれもが同等に、傷ものなんだ。

傷口を見せ合うことは出来るが、痛みまでは共有できない。

今日も脳に潜む自分へのアンチが自分へ過去一のパンチラインを噛まし自分を蝕む。

 

ゲミュートローゼ-罪悪感や同情心、羞恥心(ゲミュート)を持たない(ローゼ)。

人の気持ちが考えられず、思いやりの持てないネーガイは誰よりも悪であった。誰よりも異分子であり、蚊帳の外で吠える負け犬であった。

生まれ持った先天的なものか、それとも環境が及ぼした後天的なものなのか。しかし言えるのは、ネーガイはこの先幸せになることなど出来ず、くらい闇に潜り続けることしか出来ない。

その末路は、みんなが炯々なる黄金に集まる中、暗黒で1人、孤独で涙を流すことしかできない。

変わろうとすることは出来るかもしれない。しかしそれは、仮面を被った虚構の自分となる事と同義なのだ。

 

ある日の回顧録

共存共栄などと謳いながら、卒業式で大多数の関係が終わる「期限付きの契約」を強制的に結ぶ学校。色々な教えを刷り込みながら、社会に子供をひり出してからは何一つ責任を取らない先生。そんな所にわざわざ言って身を削る必要は無いではないか。学校を5日間も休み、全ての時間を近くの図書館で過ごす。読む本はニーチェなどの哲学本だ。

 

ネーガイの内面に本の文章が刷り込まれていく。しかし、なんの色もない白紙にインクをこぼすようなものであり、浅い知識は何色にもなれない。極彩色の渦に塗れるような知識でなければ意味が無い。

まずニーチェの試みについて知らなければ話しにならない。(以下はニーチェ哲学の重要度順)

  1. ニヒリズム」-全ての者に意味は無いという教え。これを克服する方法の模索。
  2. ルサンチマン」-根底にある嫉妬は道徳や倫理があるという考え。
  3. 「奴隷道徳」-弱者が強者に抱く嫉妬心。ニーチェはこれを強く批判した。
  4. 永劫回帰」-全ての事柄は永遠に同じことを繰り返しているという考え。ニーチェはこのループから人生の意味をパターン化しようとした。
  5. 力への意志」-人類は誰しも衝動的に力を追求するという教え。ニーチェはこれを肯定した。
  6. 「超人」-既存の価値観を超越し、新たな価値の創造。

 

僕は今、ニーチェの崇高なる思想に触れている。なんの歪みもない完璧な思想だ。これが全ての真理。世の中に対する不満の正体、喜びの幻影、あらゆる価値が僕の心に染み渡る。

 

しかし結局は、これら全て偽りの理解である。レスからくる鋭い質問にはいつも的はずれな回答をしてしまう。

それを指摘されると、「大衆に分かりやすく簡単にしているだけ」と言い訳を構築する。

 

しかしそもそも、重厚で内容豊かな、そもそも人に話すほどの思想があれば、素材と内容にことかかず、そうした思想は文法や語彙のうえでどこをとっても完璧な文章を十二分に満たし、空疎で無意味、軽率な箇所はまったくないばかりか、つねに簡潔で簡明的確な言葉となる。いっぽう思想はそこにわかりやすく、ぴったりの表現を得て、優美に伸びやかに展開するはずなのである。

 

なんの解釈もない事実だけの説明は何も生み出さない。

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事実というものは存在しない。存在するのは解釈だけである。byニーチェ