第1幕:コンビニの天使
古倉恵子、36歳。彼女の日々は、コンビニのアルバイトを中心に静かに流れていた。今夜もいつものように、古倉恵子は夢の中でレジを打ち、「いらっしゃいませ!」と朗らかな声を響かせていた。その声は、恵子自身の安らぎであり、心の平穏をもたらす魔法の呪文のようだった。
恵子がこのコンビニで働き始めてから18年が経つ。大学を卒業してすぐに就いたこのアルバイトは、いつの間にか恵子にとって人生そのものとなっていた。毎朝、店長の「おはよう」という声に迎えられ、慣れ親しんだ商品を陳列し、レジを打ち、清掃する。この繰り返しに、恵子は心地よさを感じていた。
恵子の同僚、泉さんと菅原さんは、彼女の独特な話し方やゆったりとした振る舞いに影響を受けていた。2人は恵子のことを「コンビニの天使」と呼び、その癒しのオーラに癒されていた。
「ねえ、恵ちゃん。今日も平和だね。このコンビニは恵ちゃんがいるから、なんか落ち着くわ」と泉さんが言う。
「そうですね。恵子さんはもうこの店の看板娘ですよ。お客さんも恵子さん目当てで来てくれる方、多いですからね」と菅原さんが笑う。
恵子は照れくさそうに笑った。彼女にとって、このコンビニは自分の居場所であり、自分の存在価値を確認できる場所だった。
第2幕:「普通」の定義
そんな恵子の日常に、ある日、闖入者が現れた。彼の名は白羽。婚活目的でこのコンビニのアルバイトを始めたという。
白羽は恵子より少し年下で、どこか鋭い眼差しをした男性だった。彼は恵子の働き方に最初から疑問を持っていたようだ。
「古倉さんは、ずっとこの仕事を続けてきたんですか? 大学も出ているのに、もったいないですね。もっと違う生き方だってできたはずなのに」
白羽の言葉は、恵子の心に波紋を起こした。彼女は今まで、自分の人生に疑問を持ったことがなかった。毎日のルーチンに安らぎを感じ、コンビニでの仕事に誇りを持っていた。
「私は、この仕事が好きなの。大学を出たからって、みんな同じような生き方をする必要はないわ」
恵子は自分の気持ちを主張した。しかし、白羽は納得しない様子だった。
「でも、そんなコンビニ的な生き方は恥ずかしいと思いませんか? 古倉さんはもういい年なんですよ。そろそろ結婚や家族についても考えるべきなんじゃないですか?」
「恥ずかしい」その言葉が、恵子の心に刺さった。彼女は今まで、自分の生き方が「普通」ではないとは考えたこともなかった。
「普通」とは何か。恵子は初めて、その定義について考え始めた。社会の「普通」の基準は、恵子のような人間をどう見るだろう。恵子は自分が「普通ではない」という事実に戸惑いを感じ始めた。
第3幕:揺らぐアイデンティティ
恵子は、自分のセクシュアリティについても悩み始めた。今まで、特に誰かを好きになったり、恋愛に興味を持ったりしたことはなかった。恵子は自分の性的指向が「普通」ではないのではないかと不安になった。
「ねえ、泉さん。普通の人間ってどういう人のことを言うのだろう」恵子は同僚の泉さんに尋ねた。
「普通の人間? うーん、難しい質問ね。でも、きっと、大多数の人が普通だと思うことや人を指すのかしら。多数決で決まるのよ、普通って」
泉さんの言葉は、恵子の心に重くのしかかった。「普通ではない」というだけで、自分が裁かれるような感覚に陥った。
「普通じゃないって、恥ずかしいことなのかな」恵子はぽつりとつぶやいた。
「そんなことないわよ。普通じゃないからって、悪いことじゃない。みんなそれぞれ違うのが当たり前なの」と泉さんは恵子を励ました。
しかし、恵子は家族が自分を「治そう」としている理由を理解し始めていた。以前、両親が「恵子は普通じゃない」と嘆いていたのを聞いたことがある。今まで気にも留めなかったが、その言葉が蘇り、恵子の心に暗い影を落とした。
第4幕:白羽の矛盾
恵子は、白羽の言動に矛盾を感じ始めていた。彼は、自分の人生に干渉してくる人たちを嫌っているはずなのに、恵子には「普通の生き方」を押し付けている。
「普通の人間は普通じゃない人間を裁くのが趣味なんだ。だから、俺は普通の人間が嫌いなんだ」と白羽は言う。
恵子は戸惑った。白羽の言葉は、自分自身にも向けられているのだろうか。恵子は、自分が「普通ではない」ことで白羽に裁かれているような気がしてならなかった。
「あなたは、私が普通じゃないから嫌いなの?」恵子は勇気を振り絞って尋ねた。
「そんなことないよ。俺はただ、古倉さんがもっと自分の可能性を広げられる生き方をしてほしいと思ってるだけだ」
白羽はそう言うが、恵子は彼の真意を測りかねていた。
クライマックス:世界の正常な部品
恵子は、自分のアイデンティティと人生の選択について考えを巡らせた。そして、ある夜、夢の中でレジを打ちながら、恵子は悟った。
「そうか。私は、世界の部品なんだ」
恵子は、自分が「世界の正常な部品」として生まれたのだと感じた。恵子の人生は、誰かと比べるための物差しではなく、彼女自身のものだった。
「私は、今、自分が生まれたと思った。世界の正常な部品としての私が、この日、確かに誕生したのだった」
恵子は、自分の人生を自分で選択する権利を主張した。白羽の支配から抜け出し、自分らしく生きていくことを決めたのだ。
その後、白羽はコンビニを去り、恵子は以前のように穏やかな日々を送っている。彼女は、今でも夢の中でレジを打ち、「いらっしゃいませ!」と元気に声を上げている。恵子は、自分の人生の主役は自分自身なのだと知ったのだった。
『世界の部品』おわり