アンドロギュノス-うーちん

僕はいつも自分の死を望んでいる。もちろん希死念慮も含めて現実逃避だ。自分は自分にしかなれない。痛くてカッコ悪い今の自分を、理想の自分に近づけることしかできない。みんなそれをわかってるから、痛くてカッコ悪くたってがんばるんだろう。カッコ悪い姿のままあがくんだ。

うーちんは毎日のように「なぜ生きてるのだろう」というスレを立てる。そして、死を望む理由は顔の悪さに起因する。

今日もレスが着く。

「若いんだからもっと生きたらいいのに」

こいつは分かっていない。ただでさえ醜く歪な僕の顔が、歳を重ねることでさらに悪化する。全ての細胞を死亡させることで僕の顔は永遠に凍結される。顔の変化が無ければまだ安心ができるのだ。

『美貌の凍結』、これこそうーちんの哲学であった。

そして説教の大好きなおんJ民は異質な者に対して綺麗事で正義を振りかざす。

「今は多能性の時代であり、色んな顔の人がいていい時代だよ」

多様性とは、都合よく使える美しい言葉ではない。自分の想像力の限界を突き付けられる言葉のはずだ。時に吐き気を催し、時に目を瞑りたくなるほど、自分にとって都合の悪いものがすぐ傍で呼吸していることを思い知らされる言葉のはずだ。多様性を礼賛しようとするな。

人としてあまりにも削れてしまっているブスは多様性の中に入ることも出来ない。人間は結局、自分のことしか知り得ない。社会とは、究極的に狭い視野しか持ち合わせていない個人の集まりだ。それなのにいつだって、ほんの一部の人の手によって、すべての人間に違う形で備わっている欲求の形が整えられていく。

アンドロギュノス

うーちんは女になりたかった。声は女のようだし、病気で声が出しにくい。女装をしたってブスの化粧は顔面の落書きであり、ブスのオシャレは他者に滑稽に思われてしまう。

人は顔じゃないなどと言うが、それは顔が普通か少し悪い程度のやつの意見だ。僕のように顔面が崩れきってるやつの気持ちは誰にも分からない。人との関わりの最小単位は性である。しかし顔の崩れた嫌悪を抱くものの体に触れたいと思うものは存在しない。性的対象は、ただそれだけの話ではない。根だ。思考の根、哲学の根、人間関係の根、世界の見つめ方の根。遡れば、生涯の全ての源にある。そのことに多数派の人間は気づかない。気づかないでいられる幸福にも気づかない。

うーちんは会社も辞め、社会をひり出して逃げたいと思っている。しかし、社会からほっとかれるためには社会の一員になることが最も手っ取り早いのだ。皮肉である。でも真実なのだ。ちなみに、社会の一員になるとはつまり、この世界が設定している大きなゴールに辿り着く流れに乗るということ。川のひとつとなり、海を目指すこと。そうすれば、他人からの詮索なんてたかが知れたレベルで収まるのだ。自分の命が存在していなければ生命活動の止まってしまう恐れのある生命体の隣で「明日、死にたくない」と思いながら生きることができれば、社会からほっといてもらえる可能性は高くなる。

すると、イキったクソのようなレスが今日も着く。

「死ぬなら今すぐ死ねよ。それともかまって欲しいのか?」

どうせこいつは色んなものを投げ出した中年の無職なのだろう。それは、生きているだけで自然と享受でき得る幾つもの社会的な繫がりを自ら断っていることと同義だと。そして、つくづく思う。社会的な繫がりとは、つまり抑止力であると。法律で定められた一線を越えてしまいそうになる人間を、何らかの形でその線内に留めてくれる力になり得ると。

うーちんは今日もおんJを始める。無辜之民がさらけ出した魂の霧散した世界で、弱者の残響が今日も不快な音を立てて色んな人の耳に入り込む。