悪魔の辞典

Act 1: 謎めいた隣人

「安易な想像は、誰にとっても迷惑だ」

そう言った青年・河崎の薄く弧を描いた唇は、不敵な笑みを浮かべていた。彼の部屋を訪ねたのは、僕がアパートに引っ越してきて2日目のことだった。

まだ誰とも顔見知りになっていない僕は、隣人への挨拶回りをしている最中、ふと河崎の部屋の前に立ち止まったのだ。ドアには「203号室 河崎」と書かれた紙が貼ってある。ノックをすると、しばらくしてドアがゆっくりと開いた。

「やあ」

ドア越しに現れたのは、長身で痩せた体躯の青年だった。漆黒の髪は肩まで伸び、右目が隠れている。左目には深い緑の森を思わせる瞳を宿し、どこか妖しい雰囲気を纏っていた。このアパートで一人だけ浮いているような、妙な存在感を放っていた。

「隣の204号室に昨日引っ越してきた者です。挨拶が遅れてすみません。私、藤村と言います」

「藤村か。河崎だ。よろしく」

彼はそう言うと、ドアを全開にし、部屋に招き入れてくれた。

河崎の部屋は、アパートの一室とは思えないほど本に溢れていた。壁一面を埋め尽くす本棚、床に積み上げられた本、ベッドの上にまで本が広がっている。

「本が好きなんだね」

「ああ。本はいいぞ、藤村。人生を何倍も豊かにしてくれる」

河崎はそう言うと、本棚から一冊の大きな辞典を取り出した。

「これは『広辞苑』。言葉の海原を航海できる船のようなものだ。この船に乗って、僕は言葉の海で冒険をしてきた」

河崎の独特の言い回しに、僕は少し面食らった。

「ところで藤村、君は生きるのを楽しめているか?」

突然の問いかけに、僕は戸惑いながら答えた。

「えっと、まあ、そこそこ……かな」

「ふむ。生きるのを楽しむコツは二つ。クラクションを鳴らさないこと、そして細かいことを気にしないことだ」

「クラクション……?」

「ああ、人生にはね、時に苛立ちや怒りを感じることもある。でも、そこでクラクションを鳴らしてしまえば、周りも自分も不快になる。細かいことにとらわれず、大らかに生きることが大事だよ」

河崎の言葉は、不思議と心に響いた。

「ところで藤村」

河崎は、にやりと笑うと、突然話題を変えた。

「この本を、一緒に『借りて』こないか?」

そう言って差し出されたのは、『広辞苑』だった。

「え? でも、これは……」

「心配するな。君が罪に問われることはない。僕が計画を立てる。君はただ、僕の助手をしてくれればいい」

「計画?」

「ああ。この『広辞苑』を、本屋から『借りて』くる計画だ」

河崎の計画は突飛で、危険だった。しかし、好奇心が勝った。僕は彼の計画に巻き込まれていく……。

Act 2: 明かされる過去

「計画」の準備が始まった。河崎は本屋からの「借用」計画を、まるで芸術作品を作るかのように楽しんでいるようだった。

「まずは下見だ。本屋に行き、店員の動きを確認する」

河崎に連れられ、僕たちは本屋へ向かった。店内を物色しながら、河崎は店員の動き、監視カメラの位置、緊急時の脱出ルートなどを確認していく。

「ここは小さな本屋だが、侮れない。古本屋だからこそ、希少な本が眠っている。そして、この『広辞苑』は、まさにその一つだ」

河崎の言葉からは、この計画が単なる窃盗ではない、何か深い意図があることが感じられた。

「河崎さん、なぜ『広辞苑』を『借りる』必要があるんですか?」

僕は、ずっと疑問に思っていたことを口にした。

「ふふ、藤村は面白い奴だな。その好奇心、気に入ったよ。だが、今はまだ教えない。計画が成功したら、全てを話そう」

そう言って、河崎はにやりと笑った。

下見を終え、河崎のアパートに戻った。

「計画は明日夕方、実行だ。藤村、君の役目は店員にモデルガンを突きつけて脅すことだ」

「え? モデルガン?」

「ああ、心配するな。弾は入っていない。脅すだけだ。そして、僕が『広辞苑』を『借りる』までの時間を稼いでくれ」

そう言って、河崎はモデルガンを僕に渡した。

「ところで河崎さん、ドルジさんとはどういう関係なんですか?」

僕は、ふと思い出したように尋ねた。ドルジという名前は、河崎の口から何度か聞いたことがあった。

「ドルジか……彼は僕の友人だ。この計画にも深く関わっている」

河崎の表情が、少しだけ暗くなったように見えた。

「ドルジは、僕がかつて暮らしていた町の住人だった。彼は、僕が『能力』に目覚めたことを知っている数少ない人物だ」

「能力?」

「ああ……僕には、ちょっとした『力』があるんだ。それは、時に人の心を操ることもできる」

河崎は、そう言って静かに笑った。

「その『力』を使って、本屋から『広辞苑』を『借りる』つもりなのか?」

「半分正解だ。僕の『力』は、直接的なものではない。人の心を操るというより、相手の心の隙間に入り込むようなものだ。そして、その力を使うには、ある程度、相手のことを知る必要がある」

河崎の「力」の輪郭が、少しだけ見えた気がした。

「では、なぜ『広辞苑』が必要なんですか?」

「それは……ドルジに関係がある。彼は今、とある組織に追われている。その組織から逃れるために、『広辞苑』が必要なんだ」

河崎は、ドルジという人物について語り始めた。

「ドルジは、かつて『影の旅団』と呼ばれる組織に所属していた。彼らは、政府の機密情報や企業の隠し財産などを狙うハッカー集団だった。ドルジは、その組織の幹部だったんだ」

「なぜ、そんな組織から逃げているんですか?」

「ドルジは、ある機密情報を手に入れた。それは、この国の闇を暴くことができるほどの、危険な情報だった。彼は、その情報を公開しようと組織を裏切った。そして今、組織から追われている」

「河崎さんは、なぜそんな情報を……」

「ふふ、僕の『力』は、人の心の闇をも暴くことができるんだ。ドルジの心の奥底に潜む恐怖や後悔を感じたんだよ」

河崎の「力」が、より謎めいたものに思えた。

「では、なぜ『広辞苑』が重要なんですか?」

「『広辞苑』には、ある『秘密』が隠されている。それは、ドルジが機密情報にアクセスするために必要不可欠なものなんだ」

河崎は、そう言って笑った。

「全ては、計画が成功した後に話そう。今は、明日の『借用』に集中してくれ」

そう言って、河崎は『広辞苑』をそっと本棚に戻した。

Act 3: 思わぬトラブル

翌日、僕たちは本屋へ向かった。夕方の店内は、それほど混雑していなかった。

「藤村、準備はいいか?」

「ああ、大丈夫だと思う」

「いいぞ。ここからが本番だ」

河崎は、店内をゆっくりと見渡した。そして、一人の店員に狙いを定めた。

「あの女性店員を狙う。彼女はレジの担当だ。脅してレジを開けさせればいい」

「わかった」

僕は、モデルガンをポケットに忍ばせ、女性店員に近づいた。彼女は、棚に並んだ本を整頓している。

「今だ、藤村!」

河崎の合図で、僕はモデルガンを女性店員に突きつけた。

「動くな! レジを開けろ!」

女性店員は、驚いた表情で固まっていた。

「早くしろ!」

僕が声を荒げると、彼女はゆっくりとレジを開けた。

「河崎さん!」

合図を送る。河崎が『広辞苑』を取りに裏口へ向かう。

「おい、そこの君!」

突然、男性の声がした。振り向くと、そこには中年の男性店員が立っていた。

「何をしている! 離れなさい!」

男性店員は、僕を女性店員から引き離そうとする。

「離せ! 俺は店員と話しているんだ!」

僕は、男性店員を振りほどこうとする。

「離して! これは強盗よ!」

女性店員が叫んだ。

「強盗?」

男性店員は、ようやく事態を飲み込んだようだった。

「おい、警察を呼べ!」

男性店員が叫ぶ。店内に緊張が走る。

「くそっ、計画が狂う!」

河崎が叫ぶ。

「藤村、逃げろ!」

河崎の声で我に返った僕は、とっさに店内を走り出した。

Act 4: 明かされる真実

僕は、必死に逃げ続けた。裏通りに飛び出し、人混みに紛れて逃げる。

「くそっ、捕まったらどうなるんだ……」

動悸が激しくなり、息が上がる。

「落ち着け、藤村。ここは人通りが多い。大丈夫だ」

河崎の声が、僕のポケットから聞こえた。

「河崎さん! 無事なんですね」

「ああ、計画は失敗したが、無事に逃げ切れた」

「計画はどうなったんですか?」

「『広辞苑』は『借りる』ことができなかった。だが、問題はない。また別の方法を考えよう」

河崎の声は、冷静だった。

「河崎さん、なぜ『広辞苑』が必要なんですか? ドルジさんは、どうして組織から逃げているんですか?」

僕は、今まで疑問に思っていたことを一気にぶつけた。

「藤村、よくぞ聞いてくれた。全てを話そう。実は……」

河崎は、語り始めた。

「ドルジは、かつて『影の旅団』というハッカー集団に所属していた。彼らは、政府の機密情報や企業の隠し財産などを狙っていた。ドルジは、その組織の幹部だった」

「組織から逃げているのは、機密情報を手に入れたからなんですね?」

「ああ、その通りだ。ドルジは、ある大臣の汚職の証拠を掴んだ。それは、この国の闇を暴くことができるほどの、危険な情報だった」

「では、なぜ『広辞苑』が必要なんですか?」

「『広辞苑』には、ある『秘密』が隠されている。それは、ドルジが機密情報にアクセスするために必要な『鍵』なんだ」

「『鍵』?」

「ああ、『広辞苑』には、とある文字の並びが印字されている。それは、ドルジが機密情報にアクセスするためのパスワードなんだ」

「パスワードが、本に印字されているんですか?」

「ふふ、普通の本には印字されていない。だが、ドルジが組織にいた頃に、特別に作成された『広辞苑』があるんだ。それは、パスワードが印字された、世界に一冊しかない本なんだ」

「そんな本が、どうしてこの本屋に?」

「それは、ドルジが組織を裏切った時に持ち出したんだ。そして、この本屋に隠した。組織に見つからないようにね」

「なるほど……」

「そして、僕が『広辞苑』を『借りる』理由はもうわかるね?」

「はい。ドルジさんが組織から逃れるために必要なんですね」

「その通りだ。ドルジは、組織に見つかる前に、そのパスワードを手に入れる必要がある。そして、パスワードを手に入れたら、すぐにでも海外に逃亡するつもりだ」

「海外に……」

「ああ、この国では、もはや安全に暮らせない。ドルジは、組織に見つかる前に、身を隠すつもりなんだ」

「河崎さんは、なぜドルジさんを助けようとしているんですか?」

「ふふ、それは……僕の『力』に関係があるんだ」

河崎は、少しだけ微笑んだ。

「かつて、僕が暮らしていた町に、ドルジは現れた。彼は、僕の『力』に気づき、興味を持った。そして、僕の『力』を組織のために使おうとしたんだ」

「組織のために……」

「ああ、彼らは、僕の『力』を使って、人の心を操り、機密情報を手に入れようとしたんだ」

「そんな……」

「だが、僕は拒否した。そして、ドルジは組織を裏切った。彼は、組織のやり方に疑問を持ち、正義感から機密情報を公開しようとしたんだ」

「正義感……」

「ああ、ドルジは、組織の闇を暴き、この国を変えたいと思ったんだ。そして、僕の『力』も、正しいことに使ってほしいと願った」

「河崎さんは、ドルジさんを信じたんですね」

「ああ、彼の心の奥底にある、正義感と後悔を感じたんだ。そして、彼の逃亡を助けることを決めた」

「河崎さん……」

「さあ、藤村。もう一度『広辞苑』を『借りる』計画を立てよう。ドルジが組織から逃れ、この国の闇を暴くために」

「はい!」

僕は、河崎とともに、再び計画を練り始めた。

エピローグ

再び計画を実行した僕たちは、無事に『広辞苑』を『借りる』ことに成功した。ドルジは、『広辞苑』に印字されたパスワードを使い、機密情報にアクセスした。

そして、ドルジは海外へと逃亡した。彼は、機密情報を海外のメディアに公開し、この国の闇を暴いた。

「河崎さん、ドルジさんはどうしてるんでしょうね」

「きっと、どこか遠い国で、静かに暮らしているさ」

「河崎さんは、もう『力』を使わないんですか?」

「ああ、もう使うつもりはない。ドルジとの約束だ。もう、人の心を操るようなことはしない」

「河崎さん……」

「さあ、藤村。これからは、普通の人生を送ろう。クラクションを鳴らさず、細かいことを気にせずに生きていこう」

河崎は、そう言って笑った。

「『広辞苑』を『借りた』ことは、内緒にしておこう」

「ええ、それはもちろん」

僕は、河崎とともに、穏やかな日々を過ごしていくのだった。