生の呪縛と逃走の構図

ヒトは「ただ生きている」だけの状態に耐えられない存在だ。生命の維持が保証されると、次に意味や価値を求めて走り出す。なぜなら、無意味な時間は精神に深い影響を及ぼすからだ。安心が続けば続くほど、思考の矛先は内側へと向き、存在そのものを疑問視し始める。

その衝動の源には「死の自覚」がある。自分が必ず終わりを迎えることを知るがゆえに、未来を逆算し、理想の自分像を描き出す。しかし現実とのギャップは埋めがたく、不安と焦燥が生まれる。どれだけ努力しても、死というゴールは変わらない。それでも走り続けるのは、止まればその虚無が全身を支配するからだ。

社会はその走る意欲を利用する。拡大、発展、成長を掲げる共同体は、生産性をもたらさない者を見下し、価値ある存在を装う者をもてはやす。金銭や地位が人生の成績表となり、人々は競争の輪から降りることを許されない。そのレースの監視役は、次世代の個体たちのつぶらな瞳だ。彼らがいる限り、親たちは走り続けるしかない。

「他人の目を気にするな」と言うが、それはむしろ「変わり続ける他人の基準に翻弄されるな」という意味だ。他者の評価は常に流動的で、絶対的な価値など存在しない。それでも多くの者はその目を恐れ、自己を擬態させる。だが、拒絶したもの、抑え込んだものは心の奥に積み重なり、いずれ自分を縛る鎖と化す。

結局、ヒトは死の自覚と他者の目という二重の呪縛から逃れるために走り続ける。そしてその走る行為自体が、生きることの意味をかろうじて支えているのかもしれない。止まることを許されないのなら、せめてどこへ向かうのかだけは自分で選びたいものだ。