不快は、たいてい悪として扱われる。痛み、空腹、不安、違和感、退屈、緊張。人間はそれらを取り除くことを進歩と呼び、できるだけ早く、できるだけ完全に消そうとする。しかし奇妙なのは、不快を減らすほど、人間が自由になるとは限らないことだ。むしろ不快に耐えられなくなることで、より簡単に操作されるようになる。
人は苦痛そのものより、「この状態がいつまで続くかわからない」という曖昧さに弱い。そこで原因を決め、敵を決め、正解を決める。身体の違和感には病名を、社会の不安には犯人を、人間関係の摩擦には善悪を与える。説明が正しいかどうかより、説明が終わることのほうが重要になる。わからない状態に居続けるより、間違った答えを持つほうが精神は安定するからだ。
人間は真実を欲しがるのではない。不快を終わらせてくれる説明を欲しがる。
この性質を理解すれば、なぜ人が過剰な衛生、過剰な規則、過剰な配慮、過剰な正しさを好むのかも見えてくる。それらは安全を提供するだけではない。「自分で判断しなくてよい」という報酬を与える。決められた手順に従えば、失敗しても責任は薄まる。多数派に属せば、孤独も減る。善意に従えば、自分の支配欲すら善行として処理できる。安心とは、ときに責任の委託である。
問題は、外界との摩擦を減らしすぎると、判断する能力まで鈍ることだ。違和感に触れず、反対意見を避け、失敗を先回りして排除し、傷つく可能性をすべて危険として扱えば、人は穏やかにはなる。しかしそれは強さとは違う。刺激のない場所で保たれた安定は、環境が崩れた瞬間に脆さへ変わる。文明はしばしば、巨大な鎮痛剤として機能する。痛みを消しているあいだに、痛みを読む能力まで奪っていく。
思考とは、本来、世界を固定する行為ではない。感じ、動き、また感じるという往復のなかで更新されるものだ。ところが人は、いったん言葉を与えたものを現実そのものだと思い始める。「あの人はこういう人間だ」「自分はこういう人間だ」「社会とはこういうものだ」。名前をつけることで理解した気になる。固定された説明は便利だが、便利さとは変化を見なくて済むことでもある。
最も危険な思考停止は、思考している顔をしてやってくる。
だから問題は、不快を減らすべきか、増やすべきかではない。その二択自体がすでに、人間の幼い願望を引きずっている。快適さが悪なのでも、苦痛が人を鍛えるのでもない。重要なのは、自分が何を避けるために、その説明、その正義、その集団、その安心を選んでいるのかという一点だ。不快から逃げることより、不快から逃げている自分を見ないことのほうが危険なのである。
自由とは、障害のない状態ではない。自分の内部に生じた違和感を、すぐに敵や答えへ変換せず、しばらく未処理のまま持っていられることだろう。そこに英雄的な意志は必要ない。ただ、自分が安心を買うために何を差し出しているのかを見る。その小さな認識だけは、他人に代行してもらえない。