純粋なる救済

第1章 出会いと秘密

雨が降りしきる夜、一人の男が傘も差さずに歩道を歩いていた。彼の名は石神。鋭い眼差しをした長身の男で、その表情は雨に打たれているにもかかわらず、涼しげで冷たい印象を与える。石神は今、ある決意を胸に、隣人のアパートへ向かっていた。

石神がアパートの前で足を止める。3階の窓から漏れる灯り。そこに暮らすのは、花岡靖子と彼女のひとり娘、美里だ。石神は雨に濡れた顔を上げ、3階の窓を見つめた。

「今夜こそ、想いを伝えよう。」

石神は静かにアパートの階段を上り、303号室の前に立った。深呼吸をしてからノックする。

ドアが開き、美しい女性が顔を覗かせる。花岡靖子、32歳。黒髪のショートカットがよく似合う、はかなげな雰囲気を纏った女性だ。

「石神さん? こんな遅くにどうしたの?」

「突然で申し訳ない。少し、話せないだろうか」

石神はそう言うと、部屋に通された。アパートの一室は、シンプルだが温かみのあるインテリアでまとめられていた。靖子はテーブルにコーヒーを淹れ、向かいに座った石神に差し出す。

「どうしたの? そんなに深刻な顔をして」

「実は......」

石神は、隣室に引っ越してきた日から今に至るまでを語り始めた。彼は、このアパートに越してきてからというもの、美しい母娘の姿に心を救われてきたのだと。

「私......石神さんに、ずっと感謝してたの。あなたが隣に引っ越してきてくれなかったら、私と美里は......」

靖子は涙を浮かべた。彼女たち母娘は、前の夫、工藤邦明から暴力を受けていた。工藤は仕事が上手くいかないストレスを、妻と娘にぶつけていたのだ。

「工藤は死んだわ。私と美里が......殺したの」

石神は驚かなかった。彼は、この部屋から漏れ聞こえる怒鳴り声や悲鳴を聞き、薄々そのことに気づいていたからだ。

「あなたたちを救いたい。そのためなら、私は何だってする」

石神は静かに、しかし力強くそう言った。彼の表情は、雨に濡れた夜の闇のように冷たく、そして熱い決意に満ちていた。

第2章 完全犯罪

石神は、完全犯罪を企てた。それは、隣人であり、密かに想いを寄せる靖子と美里を救うためだった。彼は、そのために必要な準備を綿密に計画した。

まず、工藤の死体を処分しなければならない。石神は、工藤の遺体を車で運び出し、山奥に埋めることにした。深夜、雨が降りしきる中、石神はスコップを持ち、車のトランクから工藤の遺体を運び出す。

「雨が味方をしてくれる。足跡も残らない」

石神はそう独りごちた。雨に打たれながら、彼は工藤の遺体を深い穴に埋めていく。

「これで、君は誰にも見つからない」

石神は、工藤の遺体に語りかけるようにそう言った。彼の表情は冷静だったが、その瞳の奥には、熱い感情が渦巻いていた。

一方、石神のかつての親友、湯川学は、ある事件について考えていた。天才物理学者として知られる湯川は、冷静で洞察力に優れた人物だ。彼は、最近起きた工藤邦明の失踪事件に興味を抱いていた。

「工藤邦明、45歳。会社員。失踪当時、家庭内暴力が原因で別居中の妻と娘がいた。暴力的な人物だったが、仕事は真面目にこなしていたらしい。そんな男が突然姿を消すとは......」

湯川は、工藤の失踪が単純な失踪事件ではないと感じていた。そこには、何か裏があるはずだと。

「警察は、家庭内暴力が関係していると見ているようだな。だが、工藤邦明という男は、本当にそこまで悪人だったのだろうか?」

湯川は、工藤の人となりを調べ始めた。そして、その過程で、工藤の隣人、石神という男の存在を知ることになる。

第3章 天才たちの対決

湯川は、石神の暮らすアパートを訪ねた。石神は、冷静な表情で湯川を迎えた。

「久しぶりだな、湯川」

「君に会うのは、学生時代以来だ。君がここに住んでいるとは知らなかったよ」

湯川は、石神に工藤邦明の失踪事件について尋ねた。石神は、工藤が家庭内暴力を振るっていたこと、そして最近になって失踪したらしいことを話した。

「警察は、工藤が暴力が原因で逃げていると見ているようだ。だが、私はそうは思わない」

湯川は、鋭い瞳で石神を見つめた。

「なぜなら、工藤邦明という男は、暴力は振るっても、家庭を捨てるような男ではないからだ。彼は、自分の家族を愛していた」

石神は、湯川の洞察力に、内心驚いていた。

「君は、工藤と親しかったのか?」

「いや、全く。ただ、彼の人となりを調べていたら、自然とそう感じただけだ」

湯川は、工藤の人柄を語る。彼は、仕事が上手くいかないストレスから、家庭内暴力を振るうようになってしまった。だが、本当は家族を愛し、大切に思っていたのだと。

「工藤は、自分の行いを悔いていた。そして、家族とやり直したいと願っていたはずだ。そんな彼が、家族を置いて失踪するだろうか?」

石神は、湯川の推理に動揺を隠せなかった。

「君は、何か知っているな。工藤の死体を発見したのではないのか?」

湯川は、石神の反応を見て、確信した。

「工藤は、殺された。そして、その犯人は......」

石神は、湯川の言葉を遮った。

「工藤を殺したのは、私だ」

第4章 揺れる想い

石神は、湯川にすべてを告白した。工藤を殺した理由、そして靖子と美里を救いたいという想い。

「私は、彼女たちを救いたかった。彼女たちがいなければ、今の私はない。恩返しをしたかったんだ」

湯川は、石神の複雑な感情を理解した。

「石神、お前は数学のことしか頭にないと思っていたが......。お前も人間だったんだな」

石神は、湯川の言葉に、僅かに表情を緩めた。

一方、靖子と美里は、石神への想いを募らせていた。美里は、石神に好意を抱いていた。

「お母さん、石神さんのことはどう思う?」

「石神さん? あなた、石神さんのこと好きなの?」

「うん。石神さんは、いつも私たちのことを助けてくれる。優しい人だよね」

靖子は、娘の言葉に戸惑いを隠せなかった。

「石神さんは、私たちの恩人よ。でも、あなたが石神さんを好きになるのは......」

「お母さんは、石神さんのことが好きなんでしょ?」

美里の言葉に、靖子は黙ってしまった。確かに、石神に惹かれている自分がいる。だが、それは娘の恋心を踏みにじることになる。

「石神さんは、私たちのヒーローなの。守ってくれるの。お母さんも、そう思ってるんでしょ?」

美里の無邪気な言葉に、靖子は涙を流した。

石神もまた、複雑な想いに揺れていた。数学への情熱と、靖子たちへの秘めた想い。彼は、その狭間で葛藤していた。

「石神先生、どうして数学が好きなんですか?」

石神の生徒、森岡が尋ねた。石神は、森岡に数学の面白さを教えたいと思っていた。

「数学は、美しいんだ。シンプルで、エレガントで、常に真実を追求する。それは、他のどんな学問にも似つかない魅力がある」

石神は、森岡に数学の問題を出し始めた。それは、石神が数学の美しさに触れた問題だった。

「解けたぞ!」

森岡は、問題を解き、石神に答えを見せた。石神は、森岡の瞳を覗き込む。

「よくやった。君は、数学の美しさに触れた。この感動を忘れないでほしい」

石神は、森岡の頭を優しく叩いた。

第5章 意外な真実

湯川は、石神の告白を聞き、事件の真相に辿り着いた。

「石神、お前は、工藤を殺した。だが、それは、靖子と美里を守るためだった」

石神は、湯川の推理に黙って頷いた。

「だが、なぜ、お前は工藤を殺した? 工藤は、家族とやり直したいと思っていた。暴力もやめるつもりだったんだ」

石神は、湯川の瞳を見つめた。

「工藤は、もうすぐ家族とやり直せると思っていた。だが、それは、靖子と美里にとっては地獄だった」

石神は、工藤が家庭内暴力をやめるとは思っていなかった。彼は、自分の家族を支配したいだけなのだと。

「工藤は、また暴力を振るう。そして、靖子と美里は、また地獄の日々を送ることになる。それを防ぐには、工藤を殺すしかなかった」

湯川は、石神の動機に驚いた。

「石神、お前は、本当に純粋な男だ。自分の求める解答が、常にシンプルで、いくつかの望みを同時に追い求めたりしない。そして、そこに辿り着くための手段もまたシンプルだ」

石神は、湯川の言葉に、静かに微笑んだ。

「だが、それは生き方が上手いとは言い難い。得られるものはすべてかゼロか。常にそんな危険と隣り合わせだ」

第6章 決断

石神は、湯川と対峙し、自分の選択を告げた。

「私は、数学を選ぶ。靖子と美里を救うために、完全犯罪を企てた。だが、それは、数学の美しさに泥を塗る行為だった」

湯川は、石神の選択に驚いた。

「石神、お前は、本当に数学を愛しているんだな。だが、それは、人間らしい感情を捨て去るということか?」

石神は、湯川の言葉に、僅かに首を横に振った。

「いや、私は、人間らしい感情を捨て去ってはいない。ただ、数学への愛が、それよりも勝っていただけだ」

湯川は、石神の複雑な内面を理解した。

「石神、お前は、数学を選んだ。だが、それは、靖子と美里を捨てるということだ」

石神は、湯川の言葉に、静かに頷いた。

「私は、彼女たちを救いたかった。だが、それは、数学への愛を捨て去るということだった」

湯川は、石神の選択を尊重した。

「石神、お前の選択を尊重する。だが、忘れるな。お前は、人間らしい感情も持ち合わせていることを」

事件の後、湯川は、靖子と美里に会った。

「石神さんは、どこに行ったの?」

美里は、石神がいなくなったことに寂しそうな表情を浮かべた。

「石神は、旅に出た。数学の研究をするためにな」

湯川は、石神の選択を尊重し、靖子と美里には伝えなかった。

「石神さんは、私たちのことを救ってくれた。本当に優しい人だった」

靖子は、石神への感謝の気持ちを口にした。

「ああ、石神は、君たちを救いたかったんだ。そして、彼は、君たちと関係を持つことなど考えられなかった。それは、数学と同じだった。崇高な存在には、近づくだけで幸せなんだ」

湯川は、石神の気持ちを代弁した。

「石神さん......」

靖子は、涙を流した。

「泣くな。石神は、君たちが幸せになることを願っている。だから、前を向いて生きていくんだ」

湯川は、優しくそう言った。

石神は、旅に出た。数学の研究をするため、海外に渡ったのだ。彼は、数学への愛を胸に、新たな人生を歩み始めた。

一方、靖子と美里もまた、新たな人生を歩み始めた。湯川の支えもあり、少しずつ前を向いて歩き出す。

「石神さんは、私たちのヒーローだった」

美里は、そう言って微笑んだ。

「ああ、石神は、君たちのヒーローだった。そして、彼は、君たちが幸せになることを願っている」

湯川は、石神の気持ちを代弁した。

「石神さん......」

靖子は、涙を浮かべた。

「泣くな。石神は、君たちが笑顔でいることを願っている。だから、笑顔で生きていくんだ」

湯川は、優しくそう言った。