ビブリア古書堂の秘密

第一章 ビブリア古書堂

穏やかな春の陽射しが差し込む、鎌倉のある静かな路地。その一角に、ひっそりと佇む古書店があった。店の名前は「ビブリア古書堂」。店先には、古書を詰め込んだ木製の本箱が並び、ガラス戸越しに覗く店内は、天井まで届く本棚が所狭しと並んでいる。

今日もビブリア古書堂の店主、五浦栞子(おうら しおりこ)は、店のカウンターの中で、古書を整理していた。栞子は23歳の若き店主。肩にかかる黒髪は、古書を愛おしむように優しく揺れる。人見知りで、客が来てもなかなか声をかけられない。しかし、古書の話になると、その瞳は生き生きと輝き出すのだった。

そんな古書堂に一人の男性が訪れた。彼の名は五浦大輔(だいすけ)、25歳。好奇心旺盛で、様々なことに興味を示す青年だ。今日は、祖母の遺品整理をしていたところ、一冊の本を見つけ、その価値を知りたくてこの店を訪れたのだった。

大輔が店に入ると、小さな鈴が柔らかく鳴り、その音に反応した栞子が顔を上げた。

「いらっしゃいませ……」

栞子は少し躊躇しながらも、精一杯の笑顔で挨拶をした。

「あ、あの……この間、電話で問い合わせをしたものですが……」

大輔がそう切り出すと、栞子ははっと気づいたように、

「あ、はい! お電話の方! どうぞ、そちらにお掛けください」

と、カウンターの前の椅子を勧めた。

大輔は椅子に座ると、持参した本をカウンターの上に置いた。それは、少し古びた『漱石全集』第八巻だった。

「この本について、何かご存知のことはありますか?」

大輔の問いに、栞子は本を手に取り、ページをめくりながら話し始めた。

「『漱石全集』は、夏目漱石の小説や評論、随筆などを集めた全集です。この第八巻には、『明暗』の後半部分が収録されていますね。この全集は、複数の出版社から刊行されていますが、この版は、文春文庫から昭和48年に出版されたものです」

栞子は、本の装丁や紙の質感、印刷の特徴などについて説明していく。その博識ぶりに、大輔は感心するばかりだった。

「この本は、私の祖母の遺品なんです。祖母は、この本に特別な思い入れがあったようで……。何か秘密があるのではないかと思い、お店に持ってきました」

大輔は、祖母の思い出を栞子に打ち明けた。

「秘密、ですか……。確かに、古書には持ち主の物語が秘められていることがあります。この本にも、何かがあるかもしれませんね」

栞子はそう言うと、本に挟まれていた一枚の紙を発見した。それは、太宰治の短歌が書かれた色あせた紙片だった。

自信モテ生キヨ 生キトシ生クルモノ スベテコレ 罪ノ子ナレバ

「この短歌は、太宰治の『走れメロス』の草稿に記されていたものです。太宰治の複雑な心境が表れていますね」

栞子の説明に、大輔はますます興味をそそられた。

「この短歌と、祖母の『漱石全集』にどんな繋がりがあるのでしょうか?」

大輔の問いに、栞子はしばらく考え込んだ後、

「もしかしたら、この本の以前の持ち主が、太宰治のこの短歌に何らかの思い入れを持っていたのかもしれません。もっと調べてみましょう」

そう提案した。

第二章 『漱石全集』第八巻の謎

「この『漱石全集』第八巻は、文春文庫から出版されたものですが、初版は1000部しか印刷されていません。ですので、古書市場では比較的珍しい部類に入ります」

栞子は、『漱石全集』第八巻の出版経緯を大輔に説明していた。

「この全集は、昭和47年から48年にかけて順次出版されました。第八巻は、昭和48年4月の出版です。この頃は、漱石ブーム真っ只中で、様々な出版社から全集が刊行されていました」

栞子は、当時の出版業界の状況を語っていく。

「この第八巻には、漱石の晩年の作品『明暗』の後半部分が収録されています。『明暗』は、漱石が死の直前に執筆した作品で、彼の人生観や死生観が色濃く反映されています」

大輔は、『明暗』について、栞子から聞くうちに、この作品に興味を持ち始めていた。

「『明暗』は、結婚をテーマにした作品です。主人公の津田の周囲で起こる様々な結婚の形を通して、人間の心理や社会のあり方が描かれています。漱石は、この作品の中で、結婚という制度や人間の関係性について、深く考察しているのです」

栞子の熱のこもった説明に、大輔は引き込まれていく。

「この第八巻には、そんな『明暗』の後半部分が収録されています。特に、津田とお延の結婚生活の苦悩や、お延の自殺未遂など、物語のクライマックスが描かれています。この巻を読めば、『明暗』という作品の持つ重みと、漱石の深い洞察を感じることができるでしょう」

大輔は、栞子の話を聞きながら、『漱石全集』第八巻に込められた思いを感じ取っていた。

「この本は、私の祖母が大事にしていたものです。もしかしたら、祖母もこの『明暗』に何か思うところがあったのかもしれません」

大輔は、祖母の顔を思い浮かべながら、そう呟いた。

第三章 受刑者の私物

「この『漱石全集』第八巻は、もしかしたら、誰かの人生を変えた一冊なのかもしれません」

そう言って、栞子は大輔に二冊の本を手渡した。

ピーター・ディキンスンの『生ける屍』と、ヴィノグラードフクジミンの『論理学入門』――どちらも、表紙に刑務所の蔵書印が押されている。

「これらは、受刑者の私物だったのですか?」

大輔は驚きを隠せなかった。

「はい。この本は、以前、知り合いの古書店主から譲り受けたものです。その方は、刑務所から出所した人たちが持ち込んだ古書を買い取っていたのです」

栞子は、大輔の驚く様子に、少し申し訳なさそうな表情を浮かべた。

「この『漱石全集』も、もしかしたら、受刑者の手に渡っていたのかもしれません。その可能性を考えて、これらの本を一緒に持ってきました」

大輔は、刑務所の蔵書印が押された本を前に、複雑な思いを巡らせた。

「受刑者の方の手に渡っていたとすれば、この本には、どんな物語が秘められているのでしょうか……」

大輔の胸中には、様々な思いが去来していた。

「この本が、どんな人生を歩んできたのか……。それを知る手がかりは、この太宰治の短歌かもしれません」

栞子は、大輔が持参した『漱石全集』第八巻に挟まれていた短歌の紙片を見つめた。

太宰治のこの短歌は、罪を背負って生きる者の心情を表しているように思えます。もしかしたら、この本の以前の持ち主は、この短歌に自分の思いを重ねていたのかもしれません」

大輔は、栞子の言葉に、得体の知れない不安を感じ始めていた。

第四章 太宰治の短歌

太宰治のこの短歌は、『走れメロス』の草稿に記されていたものです」

大輔は、知り合いの志田の家を訪れていた。志田は、かつて受刑者だった過去を持つ男だ。大輔は、栞子から聞いた太宰治の短歌について、志田に相談していた。

「『走れメロス』は、友情をテーマにした短編小説です。メロスは、親友セリヌンティウスの命を救うために、王を暗殺する計画を立てます。しかし、計画が露見し、メロスは王から死刑を宣告されるのです」

大輔は、太宰治の『走れメロス』のあらすじを志田に語った。

「メロスは、死刑執行までの三日間、村に帰り、親友と別れを告げることを王に許されます。そして、メロスは、親友の命を救うために、必死で村へと走り出すのです」

大輔は、太宰治の小説の内容を熱っぽく語っていく。

「この短歌は、メロスの心情を表しているのでしょうか?」

大輔の問いに、志田はしばらく黙考した後、口を開いた。

「メロスは、王から死刑を宣告され、罪人として扱われました。しかし、親友を救うために、自らの命をかけて走り出します。メロスは、罪を背負いながらも、生きようとする強い意志を持った人物なのです」

志田の解釈に、大輔は思わず納得した。

「確かに、メロスには、生きようとする強い意志がありました。太宰治は、そんなメロスの心情を、この短歌に込めたのかもしれません」

大輔は、太宰治の短歌が、受刑者の心情を代弁している可能性を感じ始めていた。

「もしかしたら、この短歌は、以前の持ち主の生き様を表しているのかもしれません」

大輔は、複雑な表情を浮かべた。

第五章 意外な真実

「この太宰治の短歌は、実は、ある人物の人生を暗示しているのです」

数日後、大輔は再びビブリア古書堂を訪れていた。栞子は、新たな発見をしたような表情で、大輔を迎え入れた。

「この短歌は、太宰治の親友である小山清の人生を暗示しているのです」

栞子の意外な言葉に、大輔は驚きを隠せなかった。

小山清は、太宰治の盟友として知られる作家です。彼は、太宰治より先に文壇デビューを果たし、太宰治の良き理解者でもありました」

栞子は、小山清について説明していく。

「しかし、小山清は、太宰治より先にこの世を去りました。彼は、戦争末期の昭和20年、33歳の若さで亡くなっています」

栞子の説明に、大輔は、太宰治の親友の悲劇的な人生に思いを馳せた。

太宰治は、親友の死に大きなショックを受けました。そして、この短歌は、親友の死を悼む太宰治の心情を表しているのです」

栞子は、太宰治小山清の友情について語っていく。

太宰治は、親友の死を『走れメロス』のメロスのように感じていたのかもしれません。メロスは、親友の命を救うために走り続けましたが、太宰治は、親友の死という現実から逃れることができませんでした」

大輔は、太宰治の悲痛な心情を思い、胸が締め付けられるような思いがした。

「この『漱石全集』第八巻は、もしかしたら、太宰治の親友である小山清が所持していたものかもしれません。そして、この短歌は、太宰治が親友の死を悼んで挟んだもの……」

大輔は、栞子の推理に耳を傾けながら、古書に秘められた物語の重みに圧倒されていた。

「この本は、太宰治小山清の友情という、知られざる物語を繋ぐ一冊だったのです」

栞子の言葉に、大輔は深く頷いた。古書に秘められた物語に感動し、栞子への信頼をさらに深めたのだった。

エピローグ

鎌倉の静かな路地に佇むビブリア古書堂。そこには、今日も古書にまつわる謎と秘密が持ち込まれる。人見知りの店主・栞子は、持ち込まれる古書の裏に潜む物語を紐解き、古書への情熱を燃やし続ける。

大輔は、祖母の遺品だった『漱石全集』第八巻の謎を解き明かし、古書の奥深さを知った。そして、栞子との出会いを通して、古書の世界に少しずつ引き込まれていくのだった。

ビブリア古書堂には、まだまだ数多くの古書が眠っている。そこには、持ち主の人生が刻まれ、知られざる物語が秘められている。栞子と大輔は、今日も古書堂を訪れる人々の謎を解き明かし、古書にまつわるドラマを紡いでいく。

「さて、今日はどんな古書がやってくるのかしら?」

栞子は、古書への尽きない好奇心を抱きながら、静かに微笑んだ。ビブリア古書堂の物語は、まだ始まったばかりである。