いつもの場所で、いつもと違う景色を

Act 1 マスターの夢

「いつものアメリカーノ、お待たせ」

コーヒーショップ「ブリューワーズ」のマスターは、温かな笑顔でそう言って、カウンター越しに女性にコーヒーを渡した。彼女は常連客で、店に来るたびに夢や将来の不安をマスターに打ち明ける。

「ありがとうございます。今日も美味しそう」

そう言ってコーヒーを口にした彼女は、主人公、佐藤 佳奈(さとう かな)だ。25歳。社会人3年目で、地元企業の営業職として働いている。佳奈は、今日も仕事の合間にこの店に立ち寄った。ここは、彼女にとって心安らぐ場所だった。

「マスター、私はまだ夢も見つからないし、叶えるなんて程遠いなぁ」

佳奈は、今日もまたマスターに愚痴を零す。彼女は、夢や目標に向かって邁進する同世代の人々を見て、焦燥感を抱いていた。

「ふむ、佳奈さんは夢がまだ見つかっていないと感じているんだね。でも、夢っていうのは、もっと身近なところにあるものなんじゃないかな」

マスターは、にこりと微笑むと、カウンターの中から少し身を乗り出した。

「例えば、僕にとっては、この店に足を運んでくれるお客さんが笑顔で『美味しかった』って言ってくれること。それが僕の夢だったんだ。そして、今、こうして佳奈さんがコーヒーを楽しんでくれている。僕の夢は、もう叶っているんだよ」

佳奈は、マスターの言葉に戸惑いを隠せなかった。夢はもっと壮大なもので、叶えるのは難しいことだと思っていた。しかし、マスターの言う『夢』は、もっと身近で、ささやかなものだった。

「でも、マスター。それじゃあ、夢が叶ったら終わりってことになりませんか? それって悲しくないですか?」

佳奈の率直な疑問に、マスターは穏やかな瞳で答えた。

「いや、そこからが本当の始まりなんだ。夢が叶ったら、次はそれを守り続ける。そして、もっと多くの人を笑顔にするために、努力を続けるんだよ。夢は、叶えて終わりじゃない。そこからが、本当の夢との向き合い方なんだ」

Act 2 異なる視点、新たな気づき

翌日、佳奈は同僚の田中 陽介(たなか ようすけ)と、彼の先輩である高橋 進一郎(たかはし しんいちろう)の会話を耳にした。

「俺さ、最近『赤い糸』を信じることにしたんだ」

陽介の突然の告白に、進一郎は驚いた顔を見せた。

「お前、彼女でもできたのか?」

「いや、違うんだ。この前、公園でおばあちゃんが孫に『お爺ちゃんとお前は赤い糸で結ばれてるのよ』って話してるのを見てさ。俺、なんかジーンとしちゃって」

進一郎は、陽介の言葉に目を丸くした。

「お前、意外とロマンチストだったんだな。赤い糸かぁ。俺はもっと現実的なこと考えて生きてきたからなぁ」

「進一郎さんは、赤い糸信じないんですか?」

そこに割って入ったのは佳奈だった。進一郎は、少し考えてから口を開いた。

「いや、信じないっていうか…。赤い糸って運命的な出会いってことだよな。俺は、もっと自分が努力して、掴み取るものだと思ってたから」

「赤い糸を信じることは、運命に任せることじゃないんだよ」

陽介は、進一郎の言葉に真っ向から反論した。

「赤い糸を信じることは、もっと謙虚になるってことだと思う。自分一人じゃどうにもならない出会いや巡り合わせがあるって認めること。そして、その赤い糸を大切にすることだと思うんだ」

進一郎は、陽介の言葉に感心したように頷いた。

「謙虚さと自信って、一見相反するものだけど、実は両方必要なんだよな。自分を信じる自信と、巡り合わせを大切にする謙虚さ。どっちかだけじゃ、うまくいかない」

佳奈は、二人の会話に聞き入っていた。今までの彼女は、進一郎のように『夢は自分で掴み取るもの』という考えに固執していた。しかし、マスターや陽介の言葉は、彼女の『常識』を揺さぶる。

『夢はもっと身近なところにある』

『赤い糸を信じることは、もっと謙虚になること』

佳奈は、自分の考え方の枠組みから抜け出し、異なる角度から物事を見る大切さに気づき始めた。

Act 3 「マスター」と呼ばれる理由

週末、佳奈は大学時代の友人、吉田 マコ(よしだ マコ)とショッピングモールを歩いていた。マコは、大手企業の受付嬢をしながら、モデルとしても活躍している。彼女は、華やかで積極的な性格で、いつも周囲を明るく照らす存在だ。

「ねぇ、佳奈。最近、何か変わったことない?」

マコの問いかけに、佳奈は首を傾げた。

「変わったこと? 特にはないけど…。あ、でも、最近、常連のコーヒーショップのマスターの言葉が心に響いて」

「へぇ、どんなことを言う人なの?」

佳奈は、マスターとの会話や、陽介と進一郎のやり取りをマコに話した。マコは、時折「ふうん」と相槌を打ちながら、興味深そうに聞いている。

「そういえば、佳奈。あなたは『マスター』って言葉を、そのコーヒーショップの店長に対して使ってるけど、その言葉の本来の意味を知ってる?」

突然の問いかけに、佳奈は戸惑った。

「えっと、コーヒーを淹れる人…とか?」

マコは、にっこりと笑うと、優雅にコーヒーを口にした。

「そう、コーヒーを淹れる人、という意味もある。でもね、もともとは『主人』とか『師匠』って意味なの。つまり、その人の下で学ぶ弟子や、その店を愛する客が使う言葉なのよ」

「え、そうなの!? 知らなかった…」

佳奈は、マスターという言葉の奥深さに驚いた。

「つまり、そのマスターは、佳奈にとって師匠のような存在なのね。佳奈が、その人の言葉を大切に聞いていることからも、それが分かるわ」

マコは、にこやかに言うと、再びコーヒーを口にした。

「佳奈、あなたは知らないうちに、そのマスターに影響を与えているかもしれないわよ。弟子が師匠を高めるようにね」

佳奈は、マコの言葉にハッとした。マスターが『マスター』と呼ばれる理由。それは、彼が誰かにとっての『起点』となっているからなのかもしれない。

Act 4 今、ここにある確かなもの

翌週、佳奈は仕事のことで悩んでいた。営業成績が伸び悩み、上司から厳しい言葉をかけられたのだ。彼女は、不安な気持ちを胸に、再び「ブリューワーズ」を訪れた。

「マスター、今日はモカをください」

「いつもアメリカーノなのに、今日はモカなんだね。何かあった?」

佳奈は、マスターの問いかけに、思わず本音を漏らした。

「最近、仕事がうまくいかなくて。この先、私はこの仕事でやっていけるのかなって…」

マスターは、コーヒーを淹れながら、静かに佳奈の話を聞いている。

「未来の不安か…。それは、誰もが抱えるものだね。僕にも、もちろんあるよ」

マスターは、コーヒーをカップに注ぎながら、続けた。

「でもね、佳奈さん。未来の不安ばかり見ていると、今、ここにある確かなものを見落としてしまうよ」

「今、ここにある確かなもの?」

「ああ。例えば、今、佳奈さんは、この店で、美味しいコーヒーを飲んでいる。このコーヒーを淹れるために、農園で誰かが豆を育て、収穫し、焙煎してくれた。そして、この店に足を運んでくれた。この一連の確かな事実。これが『今、ここにある確かなもの』なんだ」

マスターは、コーヒーをカウンター越しに差し出した。

「未来の不安は、今、ここにある確かなものに目を向ければ、きっと和らぐはずだよ」

佳奈は、マスターから差し出されたコーヒーを両手で受け取った。その温もりが、彼女の不安を少しずつ溶かしていくようだった。

Act 5 ココアさん

それから数日後、佳奈は「ブリューワーズ」のカウンター席から店内を見渡していた。マスターがコーヒーを淹れる姿、カウンター席で談笑する客の姿。この店は、いつも変わらない。そう思っていた。

しかし、ふと、店の奥のテーブル席に目をやった時、佳奈はハッとした。そこには、いつもとは違う『いつもの景色』が広がっていた。

「いつも、あの席でココアを飲む人がいるんだ」

マスターが、カウンター越しにそう言った。

「ココア…。でも、私、この店でココアを頼む人を見たことないです」

佳奈は、不思議に思った。この店は、コーヒー専門店で、メニューにココアはないはずだ。

「あのお客さんは、特別なんだ。僕が、この店を始める前からの常連さんなんだよ」

マスターは、少し懐かしむような表情で、続けた。

「その人は、いつもあの席でココアを飲む。そして、必ず、この店の『今』を写真に収めていくんだ。この店の『今』を残したいって」

佳奈は、マスターの言葉に導かれるように、店の奥の席に目を向けた。そこには、温かなココアが、いつものように置かれていた。

「その人は、なぜ、いつもココアを頼むんですか?」

佳奈の問いに、マスターは優しく微笑んだ。

「ココアは、この店で僕が最初に淹れた飲み物なんだ。だから、その人は、この店を特別な場所だと言って、ココアを頼むんだよ」

佳奈は、マスターの言葉に、自分の知らないところで、自分を驚かせ、喜ばせていた人がいたことに気づいた。そして、マスターを通して、自分も誰かの人生に、知らないうちに組み込まれているのかもしれないと考えるようになった。

「いつもの場所」で、彼女は「いつもと違う景色」を見た。それは、自分の知らない誰かの人生が、この場所に確かに存在しているという景色だった。

エピローグ

佳奈は、今日も「ブリューワーズ」を訪れた。マスターに、最近の出来事を話すためだ。彼女は、マスターの言葉や周囲の出来事を通して、人生や人間関係に対する考え方を少しずつ変えていく。

「マスター、今日はいつものアメリカーノを」

「お待たせ。今日もいい天気だね。さぁ、ゆっくりしていって」

マスターは、温かな笑顔でそう言うと、カウンター越しにコーヒーを差し出した。佳奈は、そのコーヒーを両手で受け取り、その温もりを感じながら、今日もまた、この店で過ごす時間を大切にしようと思った。

- THE END -